RENEWABLES 2010 GLOBALE STATUS REPORT

.Google Documens (p80:pdf) :
RENEWABLES 2010 GLOBALE STATUS REPORT
http://www.ren21.net/globalstatusreport/REN21_GSR_2010_full.pdf
http://www.ren21.net/Portals/97/documents/GSR/REN21_GSR_2010_full_revised%20Sept2010.pdf
.Google Documens (p61:pdf) :
Global Trend in Sustainable Energy Investment 2010
Analysis of Trends and Isssues in the Financing of RenewableEnergy and energy Efficiency
http://sefi.unep.org/fileadmin/media/sefi/docs/publications/UNEP_v2_proof9.pdf
【From】: http://www.renewableenergyworld.com/rea/blog/post/2010/07/the-state-of-new-energy-investing?cmpid=rss
========= ========

希望のある未来社会を創ろう

【Let's create hopeful future.】
世界の人口増大にともなって、世界的な大きな課題となってきた食料問題の解決や雇用創出を目的として、自然再生循環系(sustainable)の経済・社会体制を創造し、地球温暖化防止の係る環境創造を発展させるために、地球の表面積の約70%の海洋の利用や海洋資源開発関係等の新しい海洋開発産業・事業、大規模洋上風力発電等のプロジェクトを構築し世界の青年の夢と希望を拡げながら国際的な協力で、希望のある未来社会を創って行きましょう。

Prisident Obama 氏の支援グループへの私の過去のメール

President Obama 氏の支援グループへの私のメール
How do you do. 
 My name is yuuji matuoka , as a civil ocean engineer in japan , age 61. I want to show my presentation about the ocean development aiming at making the peaceful world to the President of Obama USA. ( : My this presentation is always my lifework. ) How do you come to be able to do it from poor life in rich life? How to change to be able to do it from the poor people to the plentful people? The Ocean Development was presented by J.F.Kennedy before about 40 years ago. Here are many objects on the subjects in these difficult big projects, but I believe it will be possible and succeed. Those many projects will be able to make up many jobs for worldwide people. The best leader will be present both The hope and The Dream for many people believing the leader. Please show to USA President Obama my presentation. I hope USA President Mr.Obama will succeed as Best excellent top leader in the world at 21century.
This is my presentation. : 私の海洋開発提案 : ノアの箱舟を創ろう-Super Floating Structure
https://docs.google.com/spreadsheet/pub?hl=ja&hl=ja&key=0Aj0s8hP9-4RddEtHWWRZOTlrRk1RRHc5ZzlKVk1LRVE&output=html
2009.1.29
===============
===============

OREC- Ocean Renewable Energy Coalition

OREC- Ocean Renewable Energy Coalition
Ocean Renewable Energy Coalition http://www.oceanrenewable.com/
President Obama Announces Ocean Task Force On June 12, 2009, President Obama announced the formation...
Markey/Waxman legislation on Climate Change Released; News for Marine Renewables Developers On May 15, 2009, Representatives Waxman and Markey...
Congressional Renewable Energy & Energy Efficiency EXPO & Forum SUSTAINABLE ENERGY COALITION MARK YOUR CALENDAR ...
http://www.oceanrenewable.com/2008/10/30/201/
~~~ ~~~ ~~~
メールで、私に a business co-operation and your assistance の協力の申し出が米国系の機関(Wright Matthew)からありました。 2010.5.19
~~~  ~~~  ~~~
From: Wright Matthew Sent: Monday, May 17, 2010 6:06 PM To: undisclosed-recipients: Subject: I need your co-operation
I need your co-operation
Hello , I am writing to you for a business co-operation and your assistance . I have some money, i will like to invest with you in your country on a good areas you could choose . I will give you further details when i read from you. I secured your contact through a directory and that is why I have written to ask for a business co-operation with you. I await your response.
Thank you. Wright Matthew.
~~~ ~~~ ~~~
【参考リンク】: http://www.oceanrenewable.com/2010/03/12/matt-r-simmons-to-address-gmrec-iii-during-thursday-april-15th-luncheon/
Matt R. Simmons to Address GMREC III during Thursday, April 15th Luncheon
March 12, 2010 by TMarieHilton
Filed under Announcements, Blog, OREC Newsroom
Matthew R. Simmons is Chairman Emeritus of Simmons & Company International, a specialized energy investment banking firm. The firm has completed approximately 770 investment banking projects for its worldwide energy clients at a combined dollar value in excess of $140 billion.
Mr. Simmons was raised in Kaysville, Utah. He graduated cum laude from the University of Utah and received an MBA with Distinction from Harvard Business School. He served on the faculty of Harvard Business School as a Research Associate for two years and was a Doctoral Candidate.
Mr. Simmons began a small investment bank/advisory firm in Boston. Among his early clients were several subsea service companies. By 1973, almost all of his clients were oil service companies. Following the 1973 Oil Shock, Simmons decided to create a Houston-based firm to concentrate on providing highest quality investment banking advice to the worldwide oil service industry. Over time, the specialization expanded into investment banking covering all aspects of the global energy industry.
SCI’s offices are located in Houston, Texas; London, England; Boston, Massachusetts; Aberdeen, Scotland and Dubai, UAE. In 2007, Mr. Simmons founded The Ocean Energy Institute in Mid-Coast Maine. The Institute’s focus is to research and create renewable energy sources from all aspects of our oceans.
Simmons serves on the Board of Directors of Houston Technology Center (Houston) and the Center for Houston’s Future (Houston). He also serves on The University of Texas’ M.D. Anderson Cancer Center Foundation Board of Visitors (Houston) and is a Trustee of the Bermuda Institute for Ocean Sciences. In addition, he is past Chairman of the National Ocean Industry Association. Mr. Simmons is a past President of the Harvard Business School Alumni Association and a former member of the Visiting Committee of Harvard Business School. He is a member of the National Petroleum Council, Council on Foreign Relations and The Atlantic Council of the United States. Mr. Simmons is a Trustee of the National Trust for Historic Preservation, The Island Institute and Farnsworth Art Museum in Maine.
Mr. Simmons’ recently published book Twilight in the Desert: The Coming Saudi Oil Shock and the World Economy has been listed on the Wall Street Journal’s best-seller list. He has also published numerous energy papers for industry journals and is a frequent speaker at government forums, energy symposiums and in boardrooms of many leading energy companies around the world.
Mr. Simmons is married and has five daughters. His hobbies include watercolors, cooking, writing and travel.
=======    =======
=======    =======

2010年5月29日土曜日

『秀吉と利休』:松岡正剛の千夜一夜

【出展リンク】: 『秀吉と利休』:松岡正剛の千夜一夜

http://www.youtube.com/watch?v=yiyiYoiss94





第九百三十四夜【0934】04年2月12日

Seigow's Book OS / WEAR

野上弥生子

『秀吉と利休』


[表紙]『秀吉と利休』
©中央公論社
Amazon
オンライン書店bk1 

野上弥生子
野上弥生子









『野上弥生子随筆集』
『野上弥生子随筆集』
竹内寛子 編
1995 岩波文庫


『野上弥生子短篇集』
『野上弥生子短篇集』
加賀乙彦 著
1998 岩波文庫

































野上弥生子
明治女学校高等科時代
(明治38年)


巣鴨上駒込の自宅にて
巣鴨上駒込の自宅にて(明治45年6月)
右から、豊一郎、一人おいて長男素一、弥生子、弟武馬


32歳の野上弥生子
32歳の野上弥生子(大正6年7月)
この年小石川区指ヶ谷町に転居


98歳の野上弥生子
98歳の野上弥生子(昭和59年3月)
臼杵の生家・小手川酒造のもとめに応じて、「白寿」の文字

『人間・野上弥生子 -「野上弥生子日記」から』
『人間・野上弥生子 -「野上弥生子日記」から』
中村智子 著
1994 思想の科学社










『人間・野上弥生子 -「野上弥生子日記」から』
安倍能成書「鬼女山房」扁額。
山荘の離れの一室に掲げられていた。
 野上弥生子がいない。こんな老媼はもう出現してくれないだろう。昭和60年にちょうど100歳で亡くなった。
宇野千代も円地文子も瀬戸内寂聴も、この人の慎ましさにはまったく頭が上がらなかった。上がらなかっただけでなく、慎ましいにもかかわらず、その教養の深さと広さと速さの相手をつとめる者なんて、もう誰もいなかった。たとえば能や謡曲については、白洲正子ですらお孫さんのようなものだった。
女流で抜きん出ていただけではない。老境に達したフリをした谷崎潤一郎が勝手なものを書いているのを読んだときは、「こんな御座なりを書くほか書くものがなく、また書けないのなら、断ってゆっくり遊んでいればよい」と文句をつけ、これじゃトーマス・マンは日本に出てこないわね、誰もやらないなら私がやらなくちゃと嘆いた。 その野上弥生子がいない。そう思うと、とたんに日本がこれから何を準備しなければならないかということを、背中にギュッと烙印されたような気分になる。
作品ももちろん読まれるべきである。『真知子』は二十代になったすべての女性が立ち会うために、『海神丸』は人間の犯罪が秘める大きな本質を知るために、『迷路』は日本の青年知識に巣くう左翼思想の意味を問うために、そして『秀吉と利休』は安易な歴史小説ブームに遥かな頭上から鉄槌を落とすべく、それぞれじっくり読んだほうがいい。
少しだけ案内しておくが、『海神丸』(1922)は武田泰淳の『ひかりごけ』(第71夜)をはるかに先んじる日本近代最初の人肉を食べるという小説で、人間が人間を食べるという悍(おぞ)ましい主題に真っ向から挑んだ。
漂流した貨物船のなか食料がなくなり、食べ物の幻視に脅かされた八蔵と五郎助が三吉の白い足に食欲をおぼえて、船長の眼を盗んで三吉を殺すのだが、血だらけになった死骸は戦慄をよぶばかりで食べられない。この悪夢のような船中の数日間を扱って、高まる緊張を船長が金毘羅信仰をもちつつ、どのように迎えていったかという、とても女性が書いたとは思えない息詰まる物語である。
8年をかけて発表された『迷路』(1948~56)は2・26事件から日中戦争におよんだ日本の暗部を、東大法科の学生管野省三の変転を通して緻密に描いた。権力をもった政治家の生き方、財閥に嫁いだ多津枝の宿命、省三の友人たちの死、延安の中国赤軍とのつながり、軍部の策謀などを独自な筆致で包みこむように綴り、最後に、「これからの日本は、ああいう青年たちの世界になるかもしれない」という能楽者の醒めた言葉を吐かせて終わっている。
七転八倒する日本の迷路を、世をすねた能楽者は外から見ているにすぎなかったとも、作者は言いたかった。
おそらくタイトルだけは広く知られているであろう『秀吉と利休』(1963)も、いまや“おばさん茶道”ばかりで埋めつくされた日本に対して、今日なお鋭利な難問を突き付けている作品である。
歴史小説のように寝転がっては読めないし、桃山文化への憧れやお茶の愛着があったくらいでは、たちまち弾き飛ばされる。
ここでは作者は、秀吉の猛然たる執念が何にあるかをまず捉え、ついで、その秀吉に愛憎半ばの癇気と情気をことごとくぶつけられたがゆえにその本質を見通したかもしれない利休を、ことごとく対比的に描いてみせた。
このように秀吉と利休を対比するのはいまでは“常識”になっているけれど(井上靖から赤瀬川原平まで)、このような対抗社会的視点を譲歩を許さぬ構えで導入したのは野上弥生子が最初だった。この人は歴史の構想においても、つねに先頭を切っていく人なのだ。どこかで発言していたが、「歴史の先生に任せていると、日本の大きな歴史が見失われますでしょう」と言っていた。
作品は、利休が山上宗二の無惨な死に方を見せつけられたのをきっかけに、ついに秀吉への抵抗を示すところに追いこまれていく様子にさしかかってから、日本文学最高の格調となっていく。利休の心の動きを追う眼として、利休の末子に紀三郎をフィクショナルに設定したのも、この作品を重厚にした。野上弥生子はこれを77歳から78歳にわたって悠々と書きつづけたのだった。
というわけで、こういう作品が示す野上弥生子の文学者としての赫々とした視野もぞんぶんに知ってほしいのだけれど、他方しかし、野上弥生子という生き方を継承するつっかえ棒こそが、いまはもっと必要に不可欠になっているという気分が、いまのぼくにはどうしても先に立つ。
そこで、以下は老婆心のようなことを書く。
自分で言うのもなんだが、この「千夜千冊」には、ときおり『読経の世界』『文房清玩』『蘭学事始』『都鄙問答』『夜学』『明六社の人びと』『蝸牛庵訪問記』『朝倉文夫の青春』『日本の幼稚園』『ハルビン学院と満州国』『近世数学史談』といった、いわば「学舎」についての一冊が羊歯植物のように青い葉をつんつんと出していて、これらにそのつど、辞書や手法や知の組み替えをめぐる一冊をそれぞれ配当すると、そこから「学びの場の渦流」と「遊びの場の渇望」とがつながって見えてくるようになっている。
そのひとつに第134夜の『明治女学校の世界』がある。そこでは木村熊二、巌本善治、植村正久、若松賤子、星野天知らの鮮烈な活動とともに、山路愛山が支援して島崎藤村がにわか先生をした「小諸義塾」のことなどにも触れておいた。数ある明治の学舎のなかでも、とりわけ女性の自覚と奔放にとって、この明治女学校がはたした役割は格別なのである。
その魅力の発揚にあたっては、むろん木村・巌本らの努力もあったのだが、その名を世に玲瓏に轟かせたのは相馬黒光・羽仁もと子・野上弥生子の三羽烏だった。
野上弥生子という静謐で苛烈な生き方は、まずこの女学校に始まった。
大分の臼杵の酒造家から東京に来ていた弥生子は、明治女学校時代に一人の青年と会う。それが一高生の野上豊一郎(臼川)で、二人は同郷だった。
やがて東大に進んだ豊一郎から弥生子は漱石を紹介され、寺田寅彦を知る。そこで弥生子は豊一郎に嫁すとともに、漱石の「門」をくぐることもためらわず、「ホトトギス」にさっそく作品を書いた。最初は『明暗』で、次が『縁』(えにし)という小品である。察しのとおり、この『明暗』が姿を変えて漱石の最終作になった。
弥生子が豊一郎と恋をしたのではなく、学問と創作の伴侶に選んだと割り切っていたことは、本人があっさり証言している。弥生子に必要なのは社会と人間の深さだったからである。しかも、弥生子の恋心のほうは別にちゃんととってある。その相手というのが『銀の匙』の中勘助なのである(第31夜)。
勘助に寄せた恋情については、弥生子は長きにわたって「秘すれば花」を貫いた(もっともいまでは野上弥生子日記も公開されて、有名になってしまった関係であるけれど)。
漱石門下の中勘助は、27歳にして野尻湖畔の僧坊や弁天島の廃屋で孤高の日々をおくることを好んだようなところがあって、弥生子はそういう勘助を慕いつづけていた。
それでも叶わぬものは叶わぬものとして、弥生子はその後も独身を貫く勘助を距離をおいて見続ける。勘助の年齢がかさみ、さすがに身の回りを見てもらう女性を必要としたときは、弥生子は我が身のごとく心配し、ついに内緒で岩波茂雄に相談をもちかけもした。
結局、そんな勘助に弥生子が二人でやっと再会できたのは、夫の豊一郎の葬儀が終わってからのこと、同い歳だった二人はすでに65歳。それでも弥生子の日記を読むと、その一瞬においてなお、二人のあいだには清浄な炎が燃えていたことが伝わってくる。
その後の野上弥生子については、いろいろ知っておいてほしいことがあるが、それらを纏めていえば、女性は知性をもって生き抜くべきだということに尽きている。
少しくだいていえば、女性は一途で多様な知性を真ッ正面から内部化し、これを次々に透明な表明によって生きていくこと、そのためには何を捨てるか、何を切り捨てるかという覚悟をもちなさいというのである。
これについては野上弥生子がつねに男のだらしなさを叱咤していたことで、その一貫した姿勢をある程度は理解することができる。
たとえば芥川龍之介や安倍能成は弥生子と豊一郎が最も親しくしていた仲間でもあるのだが、それでも芥川については「芥川氏の如き作風ではそうたくさん書けると思うのがはじめから間違いだ」と見抜き、安倍が「週刊新潮」に『戦後の自叙伝』を連載したときは、「予期したごとくつまらない。特色も精彩もない粗い書き方だ。いまの地位にいて、立派な自叙伝など書けるはずがない」と切って捨てている。
それだけではない。誰についてもダメなものはダメ、アホな男はアホな男と切り捨てた。武者小路については「これではダメだ」、志賀直哉には「よせばよいものを書きはじめてしまった」、菊池寛には一貫して「低級である」、佐藤春夫には「浅草の春芝居でやるとよい」、徳田秋声には「キザと一人よがり」と決めつけた。
このような批判を悪態をついて吐いたのではない。問われると、そういう感想をまことに慎ましく、ちょっとだけ述べるだけなのだ。しかし、その「ちょっと」で社会や流行がぐらついた。いま日本に必要なのは、これなのだ。
有閑夫人ばかりと付き合うご婦人連にも辛辣だった。岡本かの子、藤浪和子、生田花世と会食したあとの日記には、「かういふ人に逢ひ知己になると云ふことは、自分の生活には余計なことのやうな気がする。下らないお饒舌とひま潰しをするだけである」と書いた。
そんなことなら、好きな鼓を打つか(ずうっと鼓を打っていた人である)、能を観ているか(豊一郎は日本有数の能楽研究者)、それともドイツ語などを勉強しているほうがましだったのだ。日記には、79歳でドイツ語に再挑戦を始めたと出てくる。
こうした価値観の野上弥生子を支えているのは、すばらしい知性の持ち主に対しては勇気をもって脱帽する、そのことを黙っていないで表明する、ということである。
最初の尊敬が中勘助に向けられたことは述べたとおりだが、ついでは田辺元の哲学と科学に対する挑戦に敬意をもった。また晩年も、倉橋由美子や大庭みな子の新作にその才能を見抜いて、自分もこのようなことを学ばなければならないと書いた。 なお、弥生子お気に入りの北軽井沢の山荘は「鬼女山房」という。
これで、野上弥生子がいない日本がいかにヤバイかはわかってもらえたと思うのだが、本人はその原点を最後の最後になって作品に書きこもうと試みた。それが遺作となった大作『森』である。なんと87歳から10年をかけた。
では、大作『森』で何を書いたのかということを言おうとすると、ぼくはそこで胸が熱くなってしまうのだが、この『森』とは、まさしく明治女学校の日々のことだったのである。野上弥生子は最後になって、最初の学びの森の意味を日本に書きこんだのだ。